スポンサーサイト

  • 2011.06.03 Friday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -
    • -

    さらに野川沿いに自転車で走る

    • 2011.06.03 Friday
    • 07:22

    oosawa2

    深大寺から再度野川沿いのサイクリング&ウオーキング道路に出て

    少し走ると「大沢地区」である。

    大沢橋を越えると右側に国立天文台

    左手には、調布飛行場の管制塔がみえる。

    大沢とは、水の豊かに湧く場所と言う意味

    oosawa

    suisya

    このあたりは豊富な湧き水を利用した「わさび田」と

    水車がある。

    峰岸家の水車小屋であるが、小屋というより小さな工場のようだ。

    直径5mの巨大な水車が14本の杵を動かしていたのだ。

    ここは文化元年(1804年)に建てられた茅葺屋根の建物です。

    oosawa1 

    またここには、馬の厩舎がある。

    東大の馬術部のものだそうだが、一瞬驚かされる

     horshors1

    深大寺のすぐ近くに天平時代創建の古い古刹「祇園寺」がある

    • 2011.06.01 Wednesday
    • 07:38
    gion1 


    「祇園寺」は深大寺の満功上人によって天平年間(729〜49)に開山された

    といわれる古い寺です。
    寺の開基伝説は渡来人との関係を示唆するものであった。境内には朝鮮で

    みられる石人像がある。


    gion

    また、明治41年(1908)には自由民権運動家の慰霊祭が当寺で行われ、

    板垣退助により植えられたという「自由の松」があります。

    深大寺からつながる神代植物公園のバラ園に

    • 2011.05.31 Tuesday
    • 07:48

    5月21日土耀、神代植物公園に、自転車で行ってきました。

    薔薇の季節最盛期でした。
    rose1

    rose 

    ここ神代植物公園は薔薇のメッカです。

    モダンローズが267種、5500株あります。このほか、

    オールドローズや原種薔薇など、薔薇の歴史がわかります

    rose2 

    神代植物公園での薔薇の見方は、原種からモダーンローズへの

    薔薇の歴史の流れをつかみ、そのポイントとなった薔薇を

    種類別に順次観ていくと、薔薇がどのように進化していったか判るのです。

     

    まず、薔薇の原種は、ロサ・ガリカや日本原産のノイバラなのです。

    センターでなく藤棚の奥にオールドローズが植えられています。

    まず、ここのシンプルな(?)薔薇を鑑賞した後、大輪の薔薇を楽しむのです。


    france
                                                             洋梨ではない薔薇の代表「ラ・フランス」


    オールドローズとモダーンローズ(現代薔薇)の区別は?

    アメリカ・ローズ・ソサエティによると

    ハイブリット・ティ・ローズの初代「ラ・フランス」1867年にフランスの

    オーギスト・ギョーの手で生み出された、この年以前をオールドローズ

    それ以降をモダーンローズと区分します。

    ラ・フランスが生まれた1867年は、日本では坂本龍馬が暗殺された年なのです。 

    深大寺の本堂と元三大師(がんざんだいし)、山門

    • 2011.05.30 Monday
    • 07:39

    奈良時代(天平5年)満功上人によって創建された深大寺
    東京では浅草寺に次ぐ古い歴史を持つ
    境内のいたるところに水路や池があり、水に囲まれた名刹。
    厄除け、商売繁盛、縁結びの寺としても名高い。
    本尊:恵心僧都作の阿弥陀如来像
    寺宝:釈迦如来像(白鳳時代・重要文化財)


    jindaiji

    本堂

    大正8年再建され、本尊は阿弥陀如来です。鎌倉時代前期の作といわれています。
    本堂は平成15年に改修されています。
    国内の著名な寺院では 平泉の中尊寺 長野の善光寺 などがあり 

    深大寺はこれからの寺院と同格です。
    かっては多摩地方一帯から川崎にかけて 三十をこえる末寺を有した古刹であり、

    現在でも調布市内外から参拝の人々が絶えません。

     gansan

    元三大師堂

    幕末大火で類焼しましたが被災直後(1867年 慶應3年)再建されました。
    内部には慈恵大師像が安置されています。2mを越す大像は珍しく、

    鎌倉末期の作とされています。
    近世にはこの元三大師が深大寺の信仰の中心となりました。

    元三とは慈恵大師の入寂が正月三日だったことによっています。
    像は慈恵大師(元三慈恵大師良源)の自刻像といわれ、991年に深大寺に

    移座と縁起に深大寺真名縁起詞書に記されています。
    河鍋暁斉の竜の天井画が残っています。河鍋暁斉は江戸末期から明治の

    鬼才といわれ、国内外で高く評価されている画家です。


     

    白鳳仏は明治42年大師堂檀下から見つけられました。
    7世紀末の製作とみられ、関東を代表する金銅仏で清純な童顔は

    朝鮮新羅から中国隋代の仏像に源流が辿られるとされています。
    流麗な衣文はインドグプタ彫刻の影響を受けた中国唐代彫刻に連なると

    見られており、清らかな端正をそなえています。
    左手は与願印で五指の間から甘露水を垂らし、衆生の願望に応じ、

    右手は施無畏印で一切衆生に安楽無畏を施すとされています。

    sanmon 

    山門

    本柱の後方に控え柱を立て、その上方に女梁、男梁をかけ切妻屋根を乗せた門です。
    1695年(元禄8年)に千人の寄進により普請され、境内現存の最古の建物です。
    柱、組材などはケヤキで赤く塗られ、屋根裏板・垂木などはスギで黒く塗られています。

    深大寺開創と水神「深沙大王」

    • 2011.05.28 Saturday
    • 07:06

    喜多見から自転車で上流に向かうと最初のポイントは「深大寺」である。

    ここ深大寺開創には不思議な物語がある。

    (これは、深大寺の開創した満功上人が高句麗からの帰化人の血を引いて

    いたことも影響あるのかもしれない)


    『縁起』によれば、
    深大寺を開いた満功上人(まんくうしょうにん)の父、

    福満(ふくまん)が、郷長右近(さとおさうこん)の娘と恋仲となりましたが、

    右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。

     

    時に福満は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の故事を思い浮べ、

    深沙大王(じんじゃだいおう)に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に

    渡ることが出来たのです。

    娘の父母もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが

    満功上人であったと伝えています。

    長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、

    南都に法相(ほっそう)を学び、帰郷後、この地に一宇(いちう)を建て

    深沙大王を祀りました。

    時に天平5年(733年)、これが深大寺開創の伝説であります。

    shinsa1 

    いま深大寺の境域は清水にめぐまれ、その清冽な水はつきない流れと

    なって、かつては下流の田を潤してきました。

    古代、その水を求めて集まった人々の泉に対する感謝の心は、素朴な

    水神信仰を生み、やがて仏教の伝来とともにこの霊地に注目して寺が

    建立されたといわれます。これが草創期の姿なのでありましょう。

    shinsa
     

    深沙大王は本来、疫病を除き、魔事を遠ざける効能のある神とされて

    いる。唐の玄奘三蔵が経典を求めて天竺に赴く途次、砂漠での難を

    深沙大王が救ったという説話は有名ですが、深大寺では例年十月に

    深沙大王堂で大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻の転読会を厳修しますが、

    堂内には玄奘と向い合って鬼神の姿の深沙大王像が描かれている

    十六善神図が掲げられます。
    かくして『縁起』には、淳仁天皇が「浮岳山深大寺」の勅額を下し、

    大般若転読を永式と定める鎮護国家の道場になったことを伝えています。

     

    この深沙大王の社は本殿からはなれた位置に静かにたたずんでいます。

     

    休日のサイクリングサイクリング ♪♪ ヤホーヤホー♪

    • 2011.05.28 Saturday
    • 00:26

    cyari

    休日ごとに「野川」をサイクリングする愛車のブリジストンのチャリ

    ランドナーである。

    もう1台MTBを持っていて、気分で使い分けている。

     

    狛江の名は、どうやら「高麗(コマ)江」から派生しているようだ

    • 2011.05.27 Friday
    • 07:58
    nogawa10 

    「野川」が流れる世田谷区喜多見から狛江市、和泉市は、

    昔朝鮮の高句麗からの帰化人が住まいを与えられ開拓していった土地

    なのであった。
    そしてこの一帯も武蔵野であった。

    nogawa7 

    武蔵野

    武蔵野には、古い時代から湧水池と沼沢池があった。

    古い時代ほど、自然に湧く泉や清水が古代人に利用されて、

    その創り上げた生活の場所などが遺跡になって現代に伝えられている。

    武蔵野に、原始時代から先史時代の縄文・弥生・古墳と、人間の

    生活がひきつがれてきたのをみても、文化遺跡の周辺には、

    水の位置と先史人たちの遺跡とを離しては考えられない。

    狛江の野川沿いには多くの古墳が残されている

    歴史時代になって、大陸や朝鮮半島から渡来した帰化人たちは、

    武蔵野に移住して生活地を開拓したが、

    水辺を彼らの言葉で<コマエ>といっていたことからも、

    水辺や沼沢池が当時から武蔵野の各地に散在していたことがわかる。

    fla 

    現在小田急線の多摩川の手前東京側の一帯の地を狛江とか和泉とかの

    名でいっているが、武蔵野ではここだけではなく、深大寺周辺も、

    井の頭・善福寺・石神井公園の三宝寺池周辺もコマエといわれたところである。

    イントロダクション

    • 2011.05.24 Tuesday
    • 07:19
    koi
                                 錦鯉をはじめ多くの鯉も泳ぐ野川
     

    私の住まいは、東京都狛江市である。

    駅でいうと小田急線「喜多見駅」である。

    喜多見ってどこだと聞かれるが、成城学園駅の隣の駅で、

    結構便利な位置にあるのだ。


    そして、喜多見駅の東側を野川が流れている。

    川というより小川であろう。

    しかし、この野川、非常に魅力的な地形に成り立っている。

    nogawa2 

    ほぼ、毎週、自転車で野川沿線を走っていると、新しい発見がある

    1つづつ紹介しながら、この沿線の歴史も紐解いていこうと思ってこのブログを
    立ち上げた。

    ポルタジョイエ(portagioie 宝箱)というブログも書いているので
    ぜひ、そちらもご覧ください。